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天龍川を少し下った橋原橋の脇にビッタラ橋が展示されていました。

  江戸時代には、橋をかける事が許されなかったそうで、大石にへこみを付けて板を渡し、

流されてもすぐに復旧出来る橋を架けていたのだそうです。 

 名前は、渡ると橋がたわんでビタビタと音がしたからだそうです。

少し上流には、江戸時代に御倉に年貢米を運んだ舟付場もあったそうです。 

 鉄橋の上流、左側木陰の辺り。

龍光山観音院:民話諏訪の伝説・第四話 火灯山

念仏碑・徳本。  

三門に下がる注連縄。

マリオ倶楽部で、意外と今まで訪れた事が無いのが、ここ小坂観音です。 

 第114回に小坂浅間神社と火灯山を訪れた時も、参道に並ぶ立派な石碑を見ただけでした。 

 ここ旧小坂郷の辺りは古くから栄えていた所の様で、平安後期には小坂城も造られ、

鎌倉前期までは、上社の神領地であった花岡・橋原・鮎沢・駒沢・沢底の五っを小坂氏が統治していたそうです。

   観音院は、そんな小坂氏が盛んな頃に造られたのかはわかりませんが、

最初は正福寺・上社の社坊だったそうです。 

 諏訪家の分裂等で室町末期には小坂氏も衰退、寺も駒沢へ移り龍光院随願院昌福寺となったそうです。 

  戦国時代になって、社坊ではなくなっても諏訪八景の第一とされる地であり、

一時諏訪御寮人も居た事があるというので、建物も暫くは残っていたのかもしれません。

   その後、諏訪藩の祈願所として中興開基したのは二代藩主・諏訪忠恒だそうです

  明治4年には、昌福寺の末寺となり、明治44年に住職を置いた真言宗智山派の寺院となったのだそうです。

注連縄の作りは、神社にあるものと同じで、社坊の名残を残しているのかもしれません。

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