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濱弁財天神社:民話諏訪の伝説・第五話

釜口水門の駐車場までやってきました。   

昔この辺りには大きな岬があって、天龍川への水流がさえぎられ、

洪水になやませられる事が多かったそうです。  

そこで立ち上がったのが有賀村の五六郎で、

阿呆丸と揶揄された大きな船を作り、何千人という人足を使って島をとりのぞいたそうです。

  会長さんが図を書いて説明して下さいました。   

図では弁天島と浜中島の位置が逆になっている様ですが、

そもそもは島では無く岬だつた様です。 

 日根野氏が高島城を築城するにあたり諏訪湖の水位を下げるために

岬の基に水路が掘られ、島が出来たそうです。  

 その後、洪水対策として島の中央に溝を掘って島を二分、

中央の島を浜中島、弁天社の有った所を弁天島としたそうです。 

 民話に出てくる五六郎が、天保の頃にとりのぞいたのは、浜中島の方で、

弁天島は明治元年になって取り除かれたそうです。

浜弁財天神社。 新しく作られた弁天様の石像がありました。
御社宮司社・三狐神社とも言われていたとか。 

大正九年に神社となり御社宮司神社となったそうです。

弁天島には、二っの弁天社があったそうで、もともとの土地所有者であった小口氏の社と、

ここの領主となった千野氏が寄進した神社だそうです。 

 弁天島が取り除かれるにあたり、ここ御社宮司社の境内に移されたのは、

千野氏の寄進した弁天社で、厳島社と呼ばれていたそうです(今は浜弁財天神社)。 

 もう一つの弁天社は東山田の小田野に移されたそうです。 

  弁天神社の扉には丸い穴が二つ開いてました。 

 右側の穴は鍵穴状にみえますが、基は丸だったものが下の板が欠けたのかもしれません。 

 こちら側には、木の様なものが置かれていましたが、弁天島に有った木の名残かな。

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