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養川が、灌漑の技術を学び、江戸から戻ったのは37才の時、

それから2年間諏訪全域の水利調査を行い、第一回の提案を諏訪藩にしたのが、39才の時だそうです。 

 諏訪藩では、このころから二の丸と三の丸との確執が始まり、

二の丸騒動の決着のついた1783年に出した、6回目の提案が認められ、

さらに2年後・1785年・養川49才の時に、最初に開削したのがここ滝の湯堰だそうです。

  滝の湯堰は、水が直接利用者に配られ、幾筋にも分かれて消えていくそうです。

  この堰の成功で、養川の功績が認められ、3年後の52才の時に堰筋肝煎となり

1800年・64才までに八ヶ岳一帯から、下諏訪町高木までの16ケの堰を造ったそうです。

取り入れ口は、滝の湯橋の少し下流にありましたが、

今は取り入れ口の工事中だそうで、取り入れ口までは行くことが出来ませんでした。 

 工事で、取り入れ口は使えないので、滝の湯さんの上流からパイプで水が堰に運ばれているのが見えました。

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