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シダレクワ。 

二の丸東虎口(小口)は、櫓台の奥に石垣で桝形が造られいいたそうですが今は取り払われ、真直ぐに中に入れます。

  木戸だけで櫓門は無かったそうです。 

 道の脇にシダレグワが植わっていました。 

 上田は製糸の町でもあったそうで、松平氏も養蚕を推奨していたとか。

上田城は、豊臣・徳川の勢力が拮抗していた頃、徳川方にあった真田昌幸が家康の命を受けて、

豊臣方の越後上杉への守りとして、天正11(1583)に築城したものだそうです。 

 本能寺の変で信長が死んだのが天正10年、織田軍についた真田が徳川方となったのも、

天正10年の遅い時期と考えると、1年未満で造られた天正11年の城は、未完の部分が多かった様です。 

 当初は上州からの北条氏、越後からの上杉氏への守りを想定して造られたそうですが、

翌天正12年には真田氏所有の沼田城をめぐる対立で徳川氏と決別、

豊臣方の上杉氏と手を結ぶこととなったそうで、

城の守りも徳川方を想定して、今の形の東重視に変更したそうです。 

 天正13年には徳川軍は、七千の兵をもって二千足らずの上田城を攻めたそうですが、

城は落ちなかったそうです。(第一次上田合戦)

その後は、秀吉の調停で、昌幸は家康の与力大名となったそうです。

  慶長3(1598)秀吉が死去、2年後の1600年に真田氏は会津上杉軍を撃つべく徳川氏に従ていたそうですが、

石田三成の誘いを受けて、犬伏宿薬師堂で家族会議を開き、

長男・信之(信幸)は徳川方に、父・昌幸と次男・信繁(幸村)は石田方に就くことを決めたそうです。 

 そして、関ケ原の合戦の時には、昌幸・信繁親子は、上田城にこもり、西軍加担を表明したそうです。

  これを受けて、徳川秀忠は三万八千の徳川主力軍を率いて、

二千余人の守る上田城を攻めたそうです。(第二次上田合戦) 

この時、徳川軍大敗し一旦、小諸まで引き上げた所で、

関ケ原に向かう家康からの書状を受けてそのまま、関ケ原に向かう事になったそうです。 

 上田合戦で勝利した、昌幸・信繁親子も西軍の敗北で、

城を明け渡し高野山の九度山に流されたそうです。 

 翌慶長6(1601)には、家康の命を受け、諏訪頼水等によって上田城は破却、

その後真田信之は沼田・上田の他三万石の加増を受けて、九万五千石の大名になったそうです。 

 しかし、上田では、上田城の再建は許されず、三の丸跡地に藩主屋形を造り、

政治を行い主には沼田城で過ごすことになったそうです。  

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