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赤彦記念館:

博物館には、何度かおじやましていますが、赤彦館は一度ざっとみた事があつたかどうか、

説明を受けながらの見学では無かったので、殆ど覚えていません。

  入口のこの写真は赤彦42歳の時の写真だそうで、

ここではきちっとした服装で撮れていますが、

普段は身だしなみもあまり気にしない人物だったそうです。

今回は、入口に貼ってある年表を使って、赤彦の生涯をじっくりと説明して頂きました。 

 赤彦(俊彦)は明治9年に、旧高島藩士で教員の塚原浅茅の四男として上諏訪村で生まれたそうです。

  塚原家の分家では、立川流本家・立川家があるそうです。

  赤彦は、諏訪小学校高等科を卒業した14歳の時から傭教員となりその後も42歳で諏訪に戻るまでは、

教職に携わりながら、文学活動をやって来たそうです。 

 久保田家は在郷藩士の家柄で、柿蔭山房のある高木の地を治めていたそうです。

  俊彦が、そんな久保田家の養嗣子となったのは、

父親の諏訪藩士同士の関わりかと思っていましたが、

俊彦の妹・田鶴が久保田家の近くにある姉の嫁ぎ先に手伝いに来た折、

久保田家長女・うたと親しくなったのが縁だそうです。 

 二十二歳で結婚・久保田俊彦となったそうです。   

赤彦がアララギ派の歌人として本格的に活動を始めたのは、大正二年・三十七歳の時からだそうで、

亡くなったのが五十歳だから13年間の間に歌集、馬鈴薯の花・切火・氷魚・太虗集を出版、

童謡集も出版、万葉集研究、教育端文等々マルチの活躍をして来たそうです。 

 ただ教員としては、あまり優等生ではなく、地方巡りが多かったとか。 

  島木赤彦と名乗ったのも、アララギ歌人となってからだそうです。

   
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