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須久茂塚碑。  

古墳保存記念碑。

スクモ塚古墳は、榎垣外遺跡の東の端にあり、

誰の墓かはわからないそうですが、近くには正殿の長地保育園があるそうです。

 明治時代に、地主が塚の土を使う為取り除いた時石室が出てきたそうで、

山田浅蔵氏が発掘調査を行った所、馬具等の出土品が多数見つかったそうてす。 

 出土品は、長地小学校に寄付されたそうですが、火災で多くは焼失してしまったそうです。

   古墳は平地にあった為、宅地として売りに出されたそうですが、

遺跡として残したいという事で増沢氏が購入、市に90年間の無償貸与をしたそうで、

その記念碑が保存記念碑だそうです。

古墳石室の天井石。

古墳の奥は原野だったとか。

東山田の砥川から近い所に金刺氏の屋敷跡の碑があるという事で、

帰りに探しながらきましたがわかりませんでした。 

 金刺氏の祖先とる、建五百建命が国造として科野にやってきたのはAD68年頃、

マリオ倶楽部75回で更埴を訪れた時、あの辺りに将軍塚古墳が多くありましたが、

国造の活躍の場もあの辺りだったのかもしれません。 

 6世紀になって、金刺倉足が諏訪評督としてやって来たそうで、

弟の乙頴は諏訪氏の娘と結ばれて、諏訪大社の大祝になったそうです。

  大寶律令後、多くの金刺一族が伊那・諏訪・筑摩・水内・更埴・小県の郡司となったそうです。 

  金刺氏が下社の大祝となったのは、金刺貞継の時からだそうで、

10世紀の初めころではないかと思われます。 

 探した碑は確か、金刺大祝邸跡の碑で、

下社の神官達の住まいが有った所だそうで、郡司であった時の金刺邸ではないかもしれません。

  その後武士化が進み、山城をかねて秋宮を作り、

下諏訪に移り平安末期には霞ケ城を造り、大祝邸もそちらに移して行った様です。 

  榎垣外も8世紀に広がり、10世紀には狭まったそうですが、

13世紀になって、荘園を持った郷士(山田・早出)の力がついてきたのか、13世紀には再度広がったそうです。 

  14世紀の南北朝時代に、宗良親王が柴宮に身を寄せたのがわかる様な気がします。

   
   
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