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旧御射山社:霧ヶ峰本御射山神社

今は霧ヶ峰本御射山神社という事で、祭神・建御名方命だけが祀られているそうですが、

旧御射山社だった頃は、この辺りは神殿仮屋が造られた所だそうで、

御射山社・八千矛社・そして児宮社ではなかったそうですがもう一社あったそうです。 

 向かいの階段状の丘は、御狩神事に集まった参拝者(武士)の宿泊所として、穂屋が造られた跡だそうです。 

 八月の末近くは、台風がやって来る前で、各地でも風祭りが行われているそうですが、

諏訪神は風の神だそうで、一方虚空蔵菩薩は洪水等の水の仏だそうです。

   ちなみに薙鎌は風封じの神器だとか。 

 水源ともなるこの地で、神・仏を祀って、台風被害の減少と、

五穀豊穣を願ったのが最初の祭りだったのかもしれません。 

 下社の御射山祭神事の時には、五色の旗と、五色の幣帛が使われるそうですが、

これは真言密教の五大色(地・水・火・空・風)につながるもので、

平安末期には、神仏習合の思想も広がり、神宮寺も造られており、

御射山祭には寺社両方の者が登って祭事を行っていたのだそうで、そんな習合神事のなごりなのかもしれません。

  ここは下社大祝・金刺氏の御狩場だったそうですが、平安末期には、

木曽義仲と共に頼朝と戦いに参加した弟の手塚太郎は追われ、

たまたま最後の決戦の時はこの御射山祭の為に出兵していなかった兄の盛澄の武技の高さと、

武家社会を造るに当たっての、求心力としての諏訪明神活用の為か、

頼朝は諏訪の社領を寄進、御射山祭も幕府で地元の地頭等に回番で役を割り振って協力させた大がかりなものになり、

形式も全国から集まった武士達の諏訪明神奉納武術大会の様な形となったそうで、

大規模な穂屋の丘も必要になったのでしょう。

  当時の賑わいの大きさが偲ばれます。 

 この時参加した武士達により、全国に諏訪神社がひろまったとか。 

  まずは神社に参拝。 

 御射山社には、、御柱は建てないそうですが、ここ建御名方命の神社・霧ヶ峰本御射山神社となってからは、

御柱も建てられる様になったそうです。  

 927日の旧御射山祭では、

ここで、下社としての祭りを行い、下社の御射山祭を終えるのだそうです。

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